日本研究センターの日本語教育 ここまでの歩み

日本研究センターにおいて、長年にわたり指導的立場でご活躍された先生方よりお寄せいただいた文章です。(IUC紀要第20号(20号記念号)に所収のものを再掲しました)

水谷修 「センター設立の意義の再確認を」

Inter-University Center for Japanese Language Studies in Tokyo [米加十二大学連合日本研究センター]が東京に設定された目的はひとつではないが、最も強調された趣旨は、アメリカ、カナダの日本研究者の卵に徹底的に現代日本語の能力を身につけさせる必要がある、ということであった。

第一の世代の日本研究者は、ライシャワーに代表されるように、日本に生まれ育ち、日本語能力は充分に備えていた。第二の世代といわれたサイデンステッカーやドナルドキーンなどの世代の人たちも優れた日本語能力を身につけていた。その理由は、第二次大戦時の軍隊での厳しい日本語教育を受けたことにはじまる努力の積み重ねによるものであった。当時これらの世代に続く第三の世代の研究者がどのようにして日本語能力を身につけていくかが大きな課題となっていた。東京の日本研究センターはこの課題を解決するための拠点として用意されたのである。

日本語能力をしっかりと身につけた日本研究者の育成に、センターは見事な成果を挙げたと言ってよい。現在アメリカだけではなく世界の日本関係の研究者の中に占めるセンター卒業生の多さはこの事実を明らかに示している。

設立後30数年を経た現在もその重要性は少しも変わっていない。日本語能力を身に備えた若い日本研究者も予定されなかったほど多くなった。日本語の学習や日本研究のための機会も30年前に比べれば比較にならぬほど増えた。だからセンターの役割が小さくなったと考える人がいるとしたらそれは誤りである。

レベルの高い日本研究者を確保することは関係者の数が増えれば増えるほど大切になる。優れた日本研究者、日本語に深い洞察力と高度な運用能力を持った日本研究者の育成の価値をもう一度見つめ直すべき大切な時期に来ていると思う。

(元センター副所長、前日本語教育学会会長、名古屋外国語大学学長)

高木きよ子 「貴重な体験」

私にとって、センターは大きな意味をもっている。センターでの経験は、実にはかりしれないほど多くのことを私に与えてくれた。日本研究を志すアメリカ人(その他の国も含めて)との交流は、私のものの考え方や生きていく態度に大きな影響を与えたし、外国人に対する日本語教育の重要さを意識する上で、センターはかけがえのない場であった。センターで仕事をした二十年、その後も引き続きほとんど絶えることなく、教える機会に恵まれてきたことは、センターとのきずなの深さを思わずにはいられない。しかもこのセンターに、私は開所当初から身をおいた一人なのである。

センターの基礎づくりは1961年に開設されたスタンフォード大学日本研究センターに始まる。朝鮮戦争後、急速に高まってきた日本研究の魁の形でスタンフォード大学が東京に創設した日本語の研修所は、東大、慶大、早大そして日本女子大の協力により、当時の文京区高田老松町の和敬塾に置かれたが、ここは、日本人の男子大学生のための寮で、鉄筋コンクリートの三階建で教室も備わっていた。事務所に使用したのは、旧細川邸の和洋折衷の邸宅で、床の間つきの和室にスリッパ履きという形であった。これは、日本文化に関心をもつアメリカ側には大いに歓迎されたが、西洋的な合理的生活を望む日本側には何とも不便極まる日常であった。教育の上でも、日本で、日本語だけで習うということに学生はなじめず、いろいろな問題がおこった。たしかに、教え方もまだ確立しておらず、手探りの状態であった。いわゆる日本語教育の草創期だったのである。教育の上だけでなく、学生の日常生活にも困難はつきまとっていた。その頃の日本は、まだ戦後の貧困から脱して居らず、和敬塾(男子)・日本女子大の寮(女子)での生活を余儀なくされた学部学生は、食事をはじめとして生活全般にわたって、母国とは似ても似つかぬ不便さを味わわねばならず大変だったと思う。このようなさまざまな現実から学生側も日本人の方も貴重な体験をしたのである。

しかし、この混沌とした時代があり、それを乗り越えていったからこそセンターのその後のあの華々しい展開があったのだと思う。

1963年、センターは和敬塾から国際基督教大学へ移転し、やがてアメリカ・カナダの大学連合(当初は8大学)として発足した。それだけアメリカ側の日本語教育の必要性が増大したのである。学生の数も増え、日本語への熱意も向上した。教える側も教育方法に新しい道を探り、手づくりの教材も次々につくられていった。そして、1967年、バトラー所長の着任、紀尾井町への移転を機にセンターの新時代が始まった。この年、私は一年間コロンビア大学に招かれて日本語教育に携わったが、センターでの方法を活かしたやり方は、あちらでは初めてであり、大いに関心をかったようである。

一年留守にして帰って見ると、センターはすっかり様変わりして活気に溢れていた。次々に新しい教材が開発され、教育方法が編み出されていった。日本語教育機関も各大学の講座も含めて次第に数を増していった。それらの中でセンターは、特に優れた機関としての評価を受けるようになったのは、嬉しいことであった。日本一、すなわち世界一という場で仕事ができる幸せをつくづく感じたものである。何といっても優れた学生に恵まれていたこと。それがいい意味でも悪い意味でも大きな刺激になった。多くのことを私はセンターの学生から学んだ。その背後には、学生たちを育んだ各大学の日本研究の先達があり土壌があった。センターから受けたのは、日本語教育の重要さだけではない。私自身の専門分野にも大きな影響をあたえた。センターを辞めて、日本語教育から身をひいてからも、センターは私の中でかなり大きな位置を占めている。かつて学生だった方々も、その多くが、今やアメリカの、世界の日本研究、あるいは日本関係の仕事の先頭にたっている。共に仕事をした歴代の所長・先生方・職員の方々、すべて心のアルバムに焼きついている。センターは、私の大きな財産なのである。

(元センター副所長、元お茶の水女子大学・東洋大学教授、文学博士、宗教学)

大坪一夫 「センターと私」

私がセンターに日本語の講師として採用されたのは、1964年のことです。その頃のことを詳しく書くと、自分の恥をすべてさらしてしまう結果になるのですが、それを書き留めておかないと、当時のセンターの様子を歪めてしまうことになるので、あえて当時の私についての事実を書いてみようと思います。

当時の日本には、日本語の教員を養成しようと考える人はいなかったように思います。そして、私も日本語教員としてのなにか特別の知識を備えた人間としてセンターに採用されたのではないことは確かなようです。ですから、はじめの数年間は、日本語の何を教えるのか、アメリカ人の日本語学習者にどんな苦労があるのかといった知識は皆無でした。ただ毎日周りの先生にこの教材の何をどう教えたらいいのかを伺って、恐るおそる教室へ向かうというのが実態でした。そんなとんでもない私に日本語教育の総てのことを教えてくださった周囲の先生方には、なんともお礼の言いようがありません。

周囲の優しい先生方とは打って変わって、私を強烈に鍛えてくれたのはセンターの学生たちでした。こちらがまったく気付いていないことを質問してくるのですから、たまったものではありません。あれには実にまいりました。ほとんど毎日のように学生に足をすくわれ、「それは、いい質問だ。今日は答えられないから、明日まで待ってくれ」と毎日繰り返していたのですから、よく学生たちが許してくれたものだと不思議に思うほどのひどさでした。よくもノイローゼにならずにいられたものだと、自分のタフさに今となっては呆れるばかりです。

そんなわけで、私には、自分はセンター製の日本語教員であり、父親はセンターの学生たち、母親は周囲の先生方という思いが強く残っています。

センターは、当時も運営のための資金には悩みつづけておりました。沈みそうな船から真っ先に逃げ出すのは卑怯であるということで、センターには1976年までお世話になったのですが、運営費問題もある程度解決した1976年に私は名古屋大学に職を得て、そちらに移りました。

なぜ日本の大学に出ていったかというと、アメリカの大学が日本語教育についてこれだけの仕事をしているのに、日本の大学にセンター以上の働きをする機関があってもいいのではないか、そうじゃなければ、日本の大学での日本語教育に存在理由があるのかという、ある切羽詰まった想いと、俺にやらせれば、絶対にできるという若者に特有の思い上がった自負心からのことだったのです。

センターは、優れた日本語教員を多数日本の社会に輩出しました。ある人が「センターは、そのことにもっと誇りをもつべきだ。日本語教育の発展のために、センターが残した歴史を伝える義務があるのではないか」とおっしゃいました。自分が関係しているので、少々気恥ずかしい気がしないでもありませんでしたが、しかし、その評価は、間違いではないと感じております。もしそのような企画が立てられるようなことがあれば、なんらかのお手伝いはしてみたいと考えています。

(元センター言語課程主任、元名古屋大学・筑波大学・東北大学教授、現麗沢大学外国語学部教授、東北大学名誉教授)

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